■ 多田銀銅山の史跡


代官所跡

代官所跡

   約800坪にわたる広大な敷地に、寛文2年(1662)には、代官所が建っていたということが記録や文書、絵図面にあり、教育委員会が行った発掘調査と、これらの記録が符合していることが判明しました。建物は、廃藩置県の際取り壊され、その門は銀山広芝邸の門として移設されています。

 

 敷地内には、古井戸や院寺稲荷社の遺構も残されています。その後、跡地は日本鉱業職員の社宅として、昭和48年の閉山まで使用されました。日本鉱業採掘当時には、八大龍王が祀られていたようです。

 

 また、裏山には、銀山開基伝承のある金懸間歩跡や、秀吉時代の十六人間歩跡が存在します。 


悠久広場

悠久広場(堀家精錬所跡)

 

  明治28年に、島根県の鉱業家で「鉱山王」と呼ばれた堀藤十郎が採掘権を得て銀・銅・鉛の生産をはじめました。明治39年、生産規模を拡大するために、選鉱機械や洋式製錬所など当時の最新設備を設置する等の近代化を図りましたが、明治40年秋にはじまった銀・銅の価格暴落によって、機械選鉱場は使用されることなく休業に至りました。

 溶鉱炉に使われた焼けた耐火レンガや、製錬の初期過程で出る非金属の「かす」であるカラミも出土し、短期間にしろ稼動していたことがわかります。


高札場跡

高札場跡

 

 高札とは、古代から明治時代初期にかけて行われた、法令などを板面に記して、往来などに掲示して民衆に周知させる方法です。

 この高札場の遺構が、現在の銀山橋の袂に残されています。奥行き2.5m、幅8mの石壇です。その位置は、絵図などから幾度か移動していることがわかっています。

 遺構内の金毘羅権現の燈籠は、江戸中期の文化11年(1814)に建立されたものです。


広芝邸(代官所の門)

 代官所の門(広芝邸)

 

 銀山の中心街、本町通りにあります。明治の初めに銀山役所を廃止した際、門だけが広芝邸の門として移築されました。当初の門は馬に乗ったまま通れるほど高いものであったと伝えられていますが、移築の際低くされました。

 広芝は、銀山に古くからある地名でもあり、秀吉時代広芝陣屋として重要な役割も担いました。


平炉跡

 平炉跡

 

 金山彦神社の鳥居をくぐると右手に石を積み上げた石垣があり、上部が平地となっており、赤く焼けた土が露出しています。崖の突端には石垣が築かれていて、「平炉跡」の案内標識が立っています。

 この遺構は鉱石を精錬するための吹床跡で,金属を取り出した後の鉱滓(カラミ・金糞)が、石垣の下の川原のあちらこちらに散在しているのを見る事ができます。


金山彦神社

 金山彦神社

 

 金山彦神社は鉱山の神様であり、金銀財宝守護、鎮火、防火の神としても知られています。

 「銀山町山神宮由来記」には、大同2年(807)、氏神(大山咋命)山神社として建立され、天禄2年(971)に鉱山師・金瀬五郎により、社殿が御修造されたと記録されています。

 

 寛政年間の鉱山繁盛期には、男御輿、女御輿が造作されました。現在では女御輿が一基残っているのみです。秋祭りの折には4年に一度、「銀鉱石」をご神体としているこの御輿が町内を巡行されていました。

 


神宮寺

 

神宮寺は神様と仏様を祀る神仏習合の名残りです。寺の宗派は真言宗。向かって右側に薬師如来を、左側には大山祇命が祀られています。坑内作業で粉塵や油煙で目を悪くする坑夫たちは、目の病気にご利益のある薬師如来に手を合わせていたのでしょう。

青木間歩

青木間歩

 山地の中に生える常緑低木の「アオキ」が間歩の周辺に密生していたところから、「青木間歩」と名付けられたと言われています。

 

 昭和38年、日本鉱業によって開坑されました。坑口は大きく、大人二人が並んで歩ける程です。平成12年、町によって整備され、体験入坑できる唯一の間歩です。

 

 機械掘りで、全長52メートル。坑内の天井の一部に鉱脈を見ることができます。


台所間歩

台所間歩

 秀吉時代に開坑された間歩で、銀・銅が豊富に採掘され、大坂城の台所(財政)を賄うほどだったことから「台所間歩」という名がついたということです。

(キッチンのことではありません)


瓢箪間歩

瓢箪間歩

 秀吉の採掘時期(天正〜慶長期)の代表的な間歩です。

瓢箪にはじまり瓢箪に終わるといっても過言ではない大富鉱の銀鉱です。

秀吉の馬印の千成瓢箪を間歩の入口に立てることを許されたことから、

「瓢箪間歩」と呼ばれるようになったということです。

 

 伝承では、秀吉が馬上のままこの間歩に入ったとも言われています。